人的資本経営という言葉が注目されてから数年。
経営層の関心は高まり、各社で「人的資本の情報開示」や「人材戦略の見直し」が進みつつあります。
しかしその一方で、自社では何をどう変えればいいのかが明確でないまま、動けずにいる企業が多いのも現実です。
特に中堅製造業では、
- ベテラン人材の技能継承や属人化
- データの分散と活用の遅れ
- 経営層と現場の認識のズレ
といった構造的な課題が、人的資本経営の定着を阻んでいます。
「人的資本経営」とは、単なる人事施策の拡張ではなく、経営戦略と人材戦略を一体化するためのマネジメント改革です。
その本質を理解しなければ、制度やKPIを整えても成果には結びつきません。
この記事では、人的資本経営に取り組む企業が直面する代表的な課題を整理し、なぜその課題が生まれるのか、そしてどこから手を付けるべきなのかを体系的に解説します。
経営と現場をつなぐ実践的な視点から、課題を見える化し、次の一歩を設計するための考え方をお伝えします。まずは、どの企業にも共通する「5つの壁」から見ていきましょう。
人的資本経営で多くの企業が直面する5つの課題
人的資本経営に取り組む企業が増える一方で、実行段階では多くの壁に突き当たります。特に中堅企業や製造業では、経営層の理想と現場の実態にギャップが生まれやすく、人的資本経営が理念止まりになるケースも少なくありません。ここでは、現場でよく見られる5つの課題を整理し、その根本要因を解き明かします。
経営層と現場の目的がずれている
人的資本経営は、経営戦略と人材戦略を連動させることが前提ですが、多くの企業ではこの整合が取れていません。経営層は「人的資本を投資とみなす」と掲げても、現場は「評価制度の改訂」や「教育施策の一環」としか認識していないことが多いのです。結果として、経営の意思が人事施策に反映されず、戦略が現場で分断されるという状態に陥ります。目標が共有されない限り、人的資本経営は組織文化に定着しません。
人材データが分散し、意思決定に活かせていない
人的資本経営の実践には、採用・育成・評価などあらゆる人材データの統合が欠かせません。しかし実際には、Excelや個別システムにバラバラに管理されており、分析や経営判断に活用できない企業が多数を占めます。特に製造業では、技能データや生産性指標が人事データと紐づかず、「何をもって人的資本の成果とするか」が曖昧になりがちです。この状態では、情報開示を求められても説得力のある指標を出せません。
評価指標が不統一で、測定・開示が困難
人的資本情報の開示を進めるうえで、最も多い悩みが「どの指標を使えばよいのか分からない」というものです。各部門が独自の評価軸を持ち、統一基準がないまま運用されていると、全社での分析や改善ができません。
経営層から見ても、人材投資の効果を可視化できないため意思決定が遅れます。指標は作ることよりも揃えることが重要であり、組織全体で共通のKPI設計を行うことが、人的資本経営の第一歩となります。
指標設計におけるよくある混乱点
| 課題 | 状況 | 改善の方向性 |
| 指標が抽象的 | 「モチベーション」「エンゲージメント」など曖昧 | 定量化・具体化された測定基準を設定 |
| 部門ごとにバラバラ | 営業・製造・管理が異なるKPIを使用 | 共通軸(スキル・成果・学習)の導入 |
| 評価頻度が低い | 年1回の評価で改善が遅い | 四半期単位など短期モニタリング化 |
現場の理解とスキルが追いつかない
人的資本経営を推進する際、人事部門だけでなく管理職や現場リーダーの理解が不可欠です。ところが「人的資本経営=経営層の話」と捉えられ、現場に浸透しないまま制度だけが先行することがよくあります。
特に中堅製造業では、DXリテラシーの差や教育機会の不足がボトルネックとなり、データ活用やスキル開発が進まないことが多いのです。この課題は、研修や実践支援を通じて徐々に解消していく必要があります。
施策が短期的になり、定着しない
人的資本経営を「一度の研修」「一回の指標設定」で終わらせてしまうと、組織変革にはつながりません。多くの企業が「年度目標」「報告期限」に追われ、短期施策に偏る傾向があります。
重要なのは、人的資本経営を経営の仕組みとして持続させる仕組みをつくることです。評価・育成・投資のサイクルを年単位で回し、PDCAの中に人的資本の観点を組み込むことで、ようやく経営と人材が連動します。
これら5つの課題は、単なる運用ミスではなく、企業構造や文化に根づいた深い問題でもあります。次章では、なぜこうした課題が中堅製造業で起こりやすいのか――その背景を紐解いていきます。
なぜこの課題が生まれるのか ― 中堅製造業の構造的背景
人的資本経営がうまく進まない原因の多くは、単なる「やり方」の問題ではなく、組織構造や文化に深く根づいた構造的課題にあります。特に中堅製造業では、長年の成功体験や現場中心の意思決定プロセスが、人的資本経営の推進を難しくしています。ここでは、課題を生み出す3つの背景を整理します。
属人化した人材マネジメントの限界
多くの製造業では、熟練工や現場リーダーが経験と勘を頼りに人材育成を行ってきました。結果として、「誰がどのスキルを持っているか」「どの工程に最適か」といった情報が個人の頭の中に留まり、組織として蓄積されていません。
属人化は、人材の見える化を妨げる最大の要因です。退職や異動によって知識が途切れれば、人的資本の再現性が失われ、経営戦略と人材戦略を連動させることが困難になります。
データ活用の遅れとシステム分断
人材データが複数システムに分散していることは、製造業特有の構造的問題でもあります。勤怠、技能、教育、評価がそれぞれ別のツールで管理され、相互連携が取れないまま運用されているケースが多いのです。
こうした状況では、人的資本情報を経営レベルで分析・活用することができず、指標設計が属人的になるリスクがあります。さらに、データ活用を担う人材が不足していることも大きな課題です。デジタル人材の不足は、人的資本経営の根幹である「可視化と分析」を阻みます。
人的資本経営を阻む主なシステム課題
| 項目 | 現状 | 影響 |
| データ分断 | 勤怠・教育・評価が別管理 | 分析不能・精度低下 |
| 更新遅延 | 情報更新が手作業で遅い | 最新データを基に判断できない |
| 分析人材不足 | データを読む人が限られる | 経営判断に活かせない |
人事部のリソース不足と経営コミットメントの欠如
中堅企業では、人事部門が少人数体制であることが多く、日常業務だけで手いっぱいになりがちです。そのため、人的資本経営のように中長期的なテーマに十分な時間を割けません。
また、経営層のコミットメントが弱い場合、「人事がやる施策」として扱われ、全社的なプロジェクトに発展しません。人的資本経営を企業変革として進めるには、経営層が自分ごととして推進する姿勢が不可欠です。トップが明確なメッセージを発信しなければ、施策は一過性の取組みで終わってしまいます。
これらの構造的要因が複合的に作用することで、人的資本経営は進みにくくなります。次章では、こうした課題を乗り越え、組織を動かすための3つの実践ステップを紹介します。
人的資本経営を前に進める3つのステップ
人的資本経営を定着させるには、単に仕組みを導入するだけでは不十分です。重要なのは、経営・人事・現場の三者が共通の目的のもとに動ける環境を整えることです。ここでは、課題を整理した上で組織を動かすための3つの実践ステップを解説します。
経営と人事が共有する「人的資本戦略マップ」を描く
最初のステップは、経営層と人事部門の間で「何を人的資本として育て、どの経営目標に結びつけるのか」を明確化することです。ここが曖昧なままだと、各部署の取り組みがバラバラになり、成果が分散してしまいます。
戦略マップの作成では、経営戦略を軸に人材育成・配置・評価の全体像を見える化することがポイントです。たとえば「売上成長率」と「スキル向上率」を同じフレームで管理するなど、経営数値と人材データをつなげる仕組みを設計することで、投資効果を定量的に把握できます。
人的資本戦略マップの基本構成
| 項目 | 目的 | 具体的内容 |
| 経営目標 | 事業成長・生産性向上 | 数値目標・市場戦略 |
| 人材要件 | 成長に必要な人材像 | スキル・行動特性 |
| 投資計画 | 育成・配置・報酬 | 人的資本投資額・ROI |
| 評価指標 | 成果の測定基準 | エンゲージメント・定着率・育成効果 |
経営層と人事がこのマップを共有することで、施策の優先順位が明確になり、現場へのメッセージが一貫します。
データと指標を整理し、「可視化の型」を決める
次に重要なのが、人的資本の状態を客観的に把握できる「可視化の型」を設計することです。多くの企業ではデータが点在しており、何を基準に改善すべきか判断できません。まずは既存データを棚卸し、経営判断に必要な指標を3〜5項目に絞り込みましょう。
ここで重要なのは、全社で共通言語になるKPIを定義することです。たとえば「リーダー人材比率」「スキル更新率」「従業員エンゲージメント指数」など、現場が理解できる指標を設定することで、日々の行動と経営指標がつながります。
より詳しい指標設計の考え方は、人的資本経営とは?企業価値を高める定義・目的・意義をわかりやすく解説で紹介しています。
行動を変える教育と仕組みを連動させる
最後のステップは、人的資本経営を組織文化として定着させるための「教育と制度の連動」です。研修だけで終わらせず、学んだ内容をすぐに実践できる仕組みをセットで設計することが不可欠です。
例えば、評価制度や育成フローを研修内容と同期させることで、社員が「学び=行動」として体験できる環境をつくれます。加えて、学習成果をデータで蓄積・分析すれば、次の投資判断にもつながります。
経営と現場をつなぐ「人的資本経営の実践力」を育てる法人研修
→ SHIFT AI for Biz 研修プログラムを見る
この3ステップを繰り返しながら、組織全体でPDCAを回すことができれば、人的資本経営は理想論から実践の仕組みへと進化します。次章では、その進捗を可視化するためのチェックリストを紹介します。
自社の今を可視化する ― 人的資本経営セルフチェックリスト
人的資本経営を継続的に推進するには、まず自社の現状を客観的に把握することが重要です。どこに課題があり、どの領域を優先的に改善すべきかを可視化できなければ、施策の効果は限定的になります。以下のチェックリストは、中堅企業が自社の「人的資本経営成熟度」を簡易的に診断できるフレームとして活用できます。
経営戦略との整合度チェック
人的資本経営は、経営戦略と人事戦略の接続が出発点です。以下の項目に一つでも「No」があれば、経営層と人事部門の連携を見直す必要があります。
- 経営方針に基づいた人材育成計画が明文化されている
- 人事KPIが経営KPIに紐づいている
- 人的資本データが経営会議で定期的に報告されている
整合度が低い場合は、「経営×人材」の戦略マップ再設計が第一歩です。
データ活用レベルチェック
人的資本経営をデータで支える仕組みが整っているかを確認します。データの整備・分析・活用の段階でどこが遅れているかを把握することで、次に打つべき施策が明確になります。
- 人材データが部署横断で統合されている
- 経営・人事・現場が共通指標を用いて成果を議論している
- データを基に施策効果をモニタリングしている
人的資本データ整備の成熟度モデル
| レベル | 状況 | 改善の方向性 |
| レベル1 | 個人管理(Excel中心) | システム統合・自動更新化 |
| レベル2 | 部門内共有 | 全社データ連携の基盤整備 |
| レベル3 | 全社一元管理 | KPI分析と意思決定に活用 |
| レベル4 | 戦略活用 | 経営計画と連動した分析サイクル運用 |
自社がレベル2以下の場合、まずは「データの一元化」と「担当者の分析スキル強化」から始めましょう。
人材開発の仕組み成熟度チェック
人的資本経営を継続的に支えるのは、教育と評価のサイクルです。制度を作るだけでなく、行動変容を促す仕掛けを整えているかを確認します。
- 研修内容が事業戦略と整合している
- 学習成果を評価・昇進・配置に反映している
- 教育投資のROIを定期的に測定している
この段階で特に重要なのは、「学び」と「事業成果」を結びつける評価の仕組みをつくることです。教育を経営指標と連動させることで、人的資本投資が経費ではなく成長投資として認識されます。
自社のチェック結果をもとに、課題整理とアクション設計を行いたい方はこちら
→ SHIFT AI for Biz 研修プログラムを見る
このセルフチェックは、人的資本経営を「評価対象」ではなく「改善対象」として扱う第一歩です。最終章では、こうした可視化をどのように継続的な変革へとつなげるかをまとめます。
まとめ ― 人的資本経営は「課題の見える化」から始まる
人的資本経営の本質は、データを集めることでも制度を整えることでもなく、経営と人材を一つの戦略として結びつけることにあります。その起点となるのが「課題の見える化」です。自社がどの段階にあり、何が阻害要因となっているのかを定量・定性の両面から把握することで、初めて人的資本経営は経営手法として機能します。
この記事で取り上げた5つの課題(目的の不整合、データ分散、指標の不統一、現場理解の遅れ、短期施策化)は、どの企業にも共通して起こり得る構造的な問題です。特に中堅製造業では、属人化・システム分断・人事リソース不足といった現実的な制約が重なり、人的資本経営の推進が止まりやすい傾向にあります。だからこそ、経営と現場が同じ指標で「人」を語れる基盤をつくることが必要です。
その第一歩は、戦略マップとデータ基盤の整理、そして教育による意識変革です。SHIFT AI for Bizでは、こうした課題を体系的に整理し、実践的に前進させるための法人研修プログラムを提供しています。人的資本経営を考える段階から動かす段階へと進めたい企業は、ぜひチェックしてみてください。
人的資本経営は、制度ではなくプロセスです。可視化、対話、実行。この3つを継続して回すことが、企業の持続的な成長と信頼の源泉になります。
人的資本経営の課題に関するよくある質問(FAQ)
- QQ1. 人的資本経営の「課題」と「人的資本情報開示の課題」はどう違うのですか?
- A
人的資本経営の課題は、経営戦略と人材戦略をどう連動させるかという「経営の仕組み」に関する問題です。一方で、情報開示の課題は「どのデータをどのように外部へ報告するか」という開示プロセスの問題です。前者は組織の中を整える話、後者は整えた結果を社会へ見せる話と言えます。根本的な経営課題を放置したまま開示を優先すると、開示内容が形骸化し、投資家や従業員の信頼を失うリスクがあります。
- QQ2. 中堅企業でも人的資本経営を実践する必要がありますか?
- A
はい。企業規模に関わらず、人的資本経営は「人材をコストではなく資本とみなす考え方」として重要です。特に中堅企業は、限られた人材で競争力を維持するために、従業員のスキル可視化や生産性向上が経営の鍵を握ります。また、2023年以降は人的資本情報開示の流れが広がっており、将来的に取引先や金融機関からの開示要求が増える可能性があります。早期に体制を整えることが、中長期的な信用力の強化につながります。
- QQ3. 人的資本経営を始めるうえで、最初に取り組むべきことは何ですか?
- A
最初の一歩は、経営層と人事が同じ言葉で「人的資本の定義」を共有することです。人事制度の見直しやデータ整備はその後のプロセスです。まずは「人的資本をどう育てたいのか」「それをどの経営指標と結びつけるのか」を整理することで、全社での方向性が一致します。その上で、教育・データ整備・開示対応の優先順位を決めると効果的です。
- QQ4. 人的資本経営の成果をどのように測定すればよいですか?
- A
人的資本経営の成果は、短期的な売上や利益ではなく、「人材の質的向上」や「組織の変化」によって評価されます。具体的には以下のような指標が用いられます。
- エンゲージメントスコアの向上
- リーダー人材比率の増加
- スキル更新率(リスキリングの実施率)
- 離職率・定着率の改善
これらを定量的に追うことで、人的資本経営の進捗を測ることができます。重要なのは、企業の戦略目的に沿ったKPIを選定することです。
- QQ5. SHIFT AI for Bizの研修はどのような企業に向いていますか?
- A
SHIFT AI for Bizの研修は、「人的資本経営を実務として前に進めたい」企業に最適です。経営層・人事部門・現場管理職が共通理解を持ち、行動変革へつなげるプログラムを提供しています。特に、人的資本経営を「経営のPDCAに組み込みたい」「自社の人材データ活用を強化したい」という中堅企業から高い評価を得ています。

