地図や旅行ガイドブックの出版を手がける昭文社グループは、情報の正確性と信頼性を何よりも重んじてきた企業です。
同社が生成AIの活用を本格化させたのは2023年。当初は、情報漏洩や著作権侵害といったリスクに対応する徹底した「守り」の姿勢からスタートしました。
しかし、2025年を境にその姿勢は大きく転換します。経営層からの積極的なAI活用号令のもと、現在はESG経営の推進やインターナルコミュニケーションの活性化、さらには社員のメンター的な役割として生成AIが深く浸透しています。
出版物という、一度世に出れば修正が困難なプロダクトを扱う同社ならではの慎重さと、その一方で驚異的なスピード感を持って進められる業務効率化のプロセスは、多くのDX推進企業にとって示唆に富んでいます。
今回は、株式会社昭文社ホールディングスの広報担当であり、IRやESG対応も一手に担う竹内氏に、同社のAI導入の歩みと、現場で起きているリアルな変化について詳しく伺いました。

株式会社昭文社ホールディングス
広報担当
1996年昭文社(現昭文社ホールディングス)入社。地図編集部、旅行書編集部、経営戦略室を経て2014年より現職。現在は広報業務全般、コーポレートサイト・SNSの運用をメインとする傍らIR、ESG、CSRにも携わる。2023年に生成AI活用を本格化。PR TIMES主催の交流会で得た生成AIの知識を実務へと応用している。
※株式会社SHIFT AIでは法人企業様向けに生成AIの利活用を推進する支援事業を行っていますが、本稿で紹介する企業様は弊社の支援先企業様ではなく、「AI経営総合研究所」独自で取材を実施した企業様です。
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徹底した「守り」から始まった昭文社グループの生成AI導入
昭文社における生成AIの歴史は、2023年のChatGPT台頭とともに幕を開けました。当時、世界中で生成AIの可能性が叫ばれる中、同社内でも業務への取り入れ方について議論が巻き起こりましたが、最初の一歩は非常に慎重なものでした。
その背景には、出版物という「情報の正確性」が命となる事業特性があります。法務部門や情報システム部門は、無料版の生成AIの利用による情報漏洩や著作権侵害のリスクを極めて高く見積もっていました。
そのため、社員が個人の判断でAIを使い始めることへの危機感を強め、まずは会社としてのルール整備とリスク低減に力が注がれたのです。

「最初の1年半ぐらいは、法務面での注意事項やセキュリティの確認といった検討が続き、他の社員もAIを腫れ物に触るような感じで扱っており、なかなか仕事そのものには使えないという印象を持っていました。私自身もそうでしたが、アイデア出しや悩んでいる時に一般論として質問する程度の使い方にとどまっていた人がほとんどだったのではないかと思います」
2024年には、社内掲示板を通じて法務面の注意事項やセキュリティに関する注意喚起が繰り返し行われました。この時期、社員の間には「安易にAIを使ってはいけない」という空気が流れていたといいます。
同社のAI導入は、まずは企業としての安全を確保するための「守りの姿勢」を固めることから着実に進められていきました。
社員の心理的な壁を取り払うことを重視
守りの時期を経て、大きな転換点が訪れたのは2025年でした。年頭の経営メッセージにおいて、「AIは避けて通れない存在であり、業務効率化のために積極的な活用を推奨する」という明確な号令がかかったのです。
このタイミングで、会社が契約しているGoogleのプランにおいてGeminiが全社的に利用可能となりました。利用を促進するにあたって同社が重視したのは、社員の「心理的な壁」を取り払うことでした。
それまで1年半にわたって厳格な注意喚起を続けていたため、多くの社員は「外部に公開されていない社内情報を入力して本当に大丈夫なのか」という強い不安を抱いていました。

「リスクについて周知し続けていたので『リリース前の商品情報などはどう扱えばいいのか』といった不安から、活用に関する質問が来てしまう状況でした。そのため、会社が契約している環境なら大丈夫ですよといった周知を含め、正しく使うための講習が必要になりました」
具体的な施策として、持株会社である昭文社ホールディングスの全社員を対象とした対面式の講習会が実施されました。
外部講師を招き、Geminiについて網羅的に解説されている書籍をテキストとして活用しながら、3時間という限られた時間の中で重要なポイントを抜粋して学ぶ場が設けられたのです。
ESG経営とBCP策定を加速させたAIの力
昭文社ホールディングスにおけるAI活用の成功事例として、特筆すべきはESG関連業務への応用です。
上場企業としてサステナビリティに関する開示が年々重要度を増し、さらに企業価値向上が大きな命題となる中、同社は2025年度、情報セキュリティやBCP(事業継続計画)を含むESG課題6つの取り組みの推進を決定しました。
特にBCPの策定は、2011年の東日本大震災直後に一度試みたものの、当時は事例が少なく、ドキュメント作成の負担が大きすぎて断念した経緯がありました。

「AIを使うことで議事録やドキュメント作成が瞬時に終わるようになり、手間を感じないほどになりました。以前はドキュメントを一から起こすだけで一苦労でしたが、今回はAIで叩き台を作り、それをメンバーで揉んでブラッシュアップしていくというサイクルを繰り返すことで、驚くほどスムーズに案がまとまっていきました」
今回のプロジェクトでは生成AIが強力なエンジンとなりました。メンバーがチャットやオンライン会議を通じてAIと対話しながらブラッシュアップを繰り返すことで、わずか3回のサイクルでBCPの根幹部分をまとめ上げることに成功しました。
また、ESG分野において欧米の先行事例を収集する際にもAIは威力を発揮しました。Web検索ではヒットしにくい自社の規模感に近い事例も、AIに適切なプロンプトを入力することで的確に抽出することが可能になります。
これにより、従来の検索方法では数週間かかっていたリサーチ業務が劇的に短縮されました。

マテリアリティ分析を可視化し経営層へ提言する
ESG推進における次のステップとして、現在準備を進めているのがマテリアリティ分析へのAI活用です。
マテリアリティ、つまり「自社にとっての重要課題」を分析する作業は非常に高度で、社員の理解を得るのが難しい領域でもあります。竹内氏は、この複雑な概念をいかに社内や経営層へ分かりやすく伝えていくかに尽力しています。

「マテリアリティ分析を分かりやすいものにして経営層や幹部層に伝えたいと考えており、AIの画像生成や動画生成の能力を借りながら、直感的に伝わる資料を作ろうとしています。何十枚もの書類を書くのではなく、できるだけ端的に要点が分かるものをAIでうまく作り、この先の計画に活かしていきたいという提案を作成しているところです」
これまでは膨大な書類を作成する必要がありましたが、AIを使えば要点をまとめた視覚的な資料を迅速に生成できます。
これにより、経営層の意思決定を支援し、全社員が同じ方向を向いて課題解決に取り組める環境の構築を目指しています。AIの力を借りることで、専門的な知識や技術が必要な分野でも、誰もが直感的に理解できるコミュニケーションが可能になります。
AIとの対話がもたらす業務プロセスの変革
AIの導入は、社員一人ひとりの思考プロセスや意思決定のあり方にも変化をもたらしています。
竹内氏自身、業務の壁にぶつかった際には、AIを「相談役」として活用しています。たとえば、プロジェクトの進捗が滞っているとき、なぜ進まないのかという分析をAIと共に行います。

「自分たちがなぜ行き詰まっているかという分析もAIでできますし、行き詰まった時に生成AIに相談すると、別の担当部署を動かしたらどうかといった具体的な提案が返ってきます。そうしたアドバイスを大いに参考にしながら、本業が忙しい中でもESGの取り組みを少しずつ前進させることができています」
AIとの対話により主観に頼らない冷静な状況判断が可能になり、忙しい部署を動かすための具体的な施策が立てやすくなるのです。
ただし、全ての業務をAIに委ねているわけではありません。
特に経営に関わる重要な文書や対外的な開示情報については、AIが生成した部分と人間がフォローアップした部分を明確に区別し、最終的な責任は必ず人間が持つという規律を徹底しています。

AI活用による働き方の変化とコミュニケーションの進化
AIの登場は、社員の働き方にも具体的な変化を及ぼしています。特に広報やIRを担当する竹内氏の場合、朝一番の業務である情報の抜け漏れチェックが格段に効率化されました。
大量に届くメールの返信漏れがないかをAIに確認させることで、重大なエラーを未然に防いでいます。また、外部からの難解な問い合わせ、特に法的な内容が絡む質問に対して、AIを一次回答の相談相手として使うことで、回答のスピードと質が向上しました。

「これまでは自分の知識や経験だけに頼って返していたような難しい問い合わせに対しても、一度AIに相談してから返せるようになったのは大きいです。また、コロナ以降在宅ワークが多くなりチャットベースでのやり取りが増える中で、文章のアウトプットの効率アップにもAIは非常に役立っています」
以前のようにオフィスで隣の席の人に気軽に相談することが難しくなった今、チャットベースのやり取りの中で、自分の考えを整理するためにAIと対話する時間は欠かせないものとなっています。
AIは単純な作業の代替だけでなく、人間同士のコミュニケーションを円滑にするための「下地づくり」としての役割も担っています。
生成AIが変えたインターナルコミュニケーション
昭文社ホールディングスでは、社外で行われる業界団体の活動やグループ各社のイベントを社内へ共有する際にも、AIを効果的に活用しています。
象徴的な例が動画記録の共有です。かつては、イベント全体をICレコーダーで録音し、膨大な時間をかけて文字起こしをしていました。
その結果、記事が公開されるのはイベントから約2~3ヶ月後になり、情報の鮮度が失われて誰にも読まれないという課題がありました。

「社外であったことをいかにリアリティを持って、かつスピーディに関係者に伝えるかが重要です。以前のやり方だと忘れた頃に報告が出るような状況でしたが、今は生成AIを使うことで文字起こしもすぐに整形でき、動画も数日で公開できるようになりました。情報の鮮度を保てるスピード感は、生成AIなしには考えられません」
動画撮影したその場でAIを使って文字起こしを行い、瞬時に文章を整えて社内掲示板へアップすることが可能です。このスピード感の向上により、社内外からのリアクションは劇的に増加しました。
AIは組織の透明性を高め、インターナルコミュニケーションを活性化させる強力な武器となっています。
AI共創社会における「人間力」の再定義
竹内氏は、AIが当たり前に存在する世界における「人間ならではの価値」について次のように語ります。

「AIは非常に便利なものですが、災害時など、デジタルに頼れないシチュエーションを考慮する必要が私たちの事業領域には数多くあります。人間として、AIがなくとも自分の命を守れる術や知識を持っておくことが、これからの時代はより大切になるのではないでしょうか」
昭文社グループのビジネス領域には、登山地図や防災地図など、生命に直結する分野が多く含まれています。AIはビジネスを効率化するための非常に優れた道具ですが、それによって人間が思考や体感を放棄してしまえば本末転倒です。
AIを使いこなしながらも、人間として押さえておくべき知識をサービスとして提供し続ける。それが同社の描く未来図です。
AIを敵視するのではなく、また過度に依存するのでもなく、人間がより良く生きるためのパートナーとして位置づける昭文社グループの姿勢は、テクノロジーとの健全な付き合い方を提示しています。

昭文社グループに学ぶ5つのポイント
株式会社昭文社ホールディングスを中心とした昭文社グループのAI活用は、情報の信頼性を第一とする老舗企業が、いかにして最新技術を組織に馴染ませ、実務の成果へと繋げたかという優れたモデルケースです。
同社の取り組みの本質は、“スピード感のある効率化”と“徹底したリスク管理”を高い次元で両立させている点にあります。AI導入に悩む多くの企業が参考にすべき、5つのポイントを整理しました。
- 「守り」のルール固めから始める着実なアプローチ
同社は、いきなり全社でAIを使い始めるのではなく、まずは1年半もの時間をかけて法務・セキュリティ面の整備と注意喚起を行いました。この「まずはリスクを管理する」という姿勢があったからこそ、後の積極活用への転換がスムーズに進み、社員が安心してツールを使える土壌が整いました。 - 経営トップの号令で「心理的な壁」を打破する
長期間の注意喚起により生まれた「簡単には使えない」という空気を、経営層の力強い号令によって「使うべきもの」へと一気に転換させました。現場の判断だけに任せず、トップが活用を推奨する姿勢を明確に示すことが、組織の方向性を変える決定打となりました。 - 実務に直結する「伴走型」の活用と教育
持株会社の全社員を対象とした対面講習会の実施や、具体的な業務での成功事例を次々に創出しました。単なるツールの配布に終わらせず、具体的な業務の困りごとをAIで解決する体験を共有することで、活用を自分事化させています。 - 情報の「鮮度」と「信頼性」をAIで最大化する
インターナルコミュニケーションにおける動画や文字起こしの活用は、情報の鮮度を劇的に向上させました。一方で、経営に関わる重要な意思決定においては人間のチェックを厳格に行い、AIが得意な「速度」と人間が責任を持つ「正確性」を明確に使い分けています。 - AIを「思考のパートナー」として位置づける
竹内氏は、AIを単なる作業代行ツールではなく、現状分析や課題解決のための相談相手として活用しています。行き詰まった際に客観的な視点を得るためにAIと対話する手法は、孤独な意思決定を迫られる担当者にとって、再現性の高いスキルと言えます。
もちろん、ここで紹介した取り組みは、昭文社グループの企業文化や「情報の正確性」を尊ぶ姿勢があってこそ実現できたものでもあります。
重要なのは、「仕組みそのものを真似ること」ではなく、自社のプロダクトや文化に合った形でAIの活用を設計することです。AIを導入すること自体がゴールではなく、社員一人ひとりが不安なく、かつ効果的にツールを使いこなせる環境を整えることが本当の成果につながります。
しかし、実際に自社でこれを実践しようとすると、
「守りのルール作りをどこまで厳格にすべきか?」
「現場の心理的な壁を取り払うための具体的な講習内容は?」
「AIとの壁打ちを習慣化させるにはどうすればいい?」
といった壁に直面する企業も少なくありません。多くの組織が同じ悩みを抱えています。
私たちSHIFT AIは、こうした「導入したが定着しない」という課題解決を得意としています。
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