創業以来、化学農薬で世界の農業を支えてきた日本農薬株式会社。しかし同社が目指すのは、農薬を売ることだけではありません。
同社は2018年からAI病害虫雑草診断アプリ「レイミーのAI病害虫雑草診断」(以降「レイミー」)を展開し、農業現場のデジタル変革に早くから着手してきました。
その先進性は、社内のAI活用にも及んでいます。
経営企画部では定常業務の8割をAIで削減。生成AIの利用環境は本社部門のほぼ全員に整備され、グローバル16社への多言語展開にもAIをフル活用しています。
変革の中核を担うのが、経営企画部の岡田敦氏です。レイミーの立ち上げ初期メンバーとして開発に携わり、現在は全社のAI・DX推進をリードしています。
本記事では、岡田氏とグローバル展開を担当する青島氏に、7年にわたるAI活用の蓄積と、農業という成熟産業から見据える未来像を伺います。

日本農薬株式会社 経営企画部 経営企画グループチーフ
レイミー開発の初期メンバーとして2017年の構想段階から参画。NTTとの共同開発を経てアプリをリリースした後、経営企画部へ。現在は全社的なAI・DX戦略の立案と推進を統括し、生成AI使用ガイドラインの策定やダッシュボード構築など、組織全体のデジタル変革を牽引。

日本農薬株式会社 外販事業本部 スマート農業推進部 専任課長
2014年に入社し、総合研究所の昆虫グループで殺虫剤の研究に従事。2021年にスマート農業推進部へ異動し、「レイミー」の国内展開に加え、海外でのアプリ展開を担当。現在は専任課長として、グローバル16社へのAI活用とスマート農業の推進をリードしている。
※株式会社SHIFT AIでは法人企業様向けに生成AIの利活用を推進する支援事業を行っていますが、本稿で紹介する企業様は弊社の支援先企業様ではなく、「AI経営総合研究所」独自で取材を実施した企業様です。
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農家の「50回の意思決定」を支える。レイミーが生まれた背景
日本農薬がAIに本格的に向き合い始めたのは、生成AIブームのはるか前、2017年に遡ります。
きっかけは、農業が抱える構造的な課題でした。
農業従事者の平均年齢は年々上がり、担い手は減少の一途をたどっています。農業がサステナブルな産業として存続できるのか──社会的な危機感が、社内でも共有され始めていました。
農家は栽培期間中に約50回もの意思決定を求められるといいます。
どの農薬をいつ散布するか、その判断には高度な専門知識が必要であり、法令による厳格な規制も伴います。従来はJAや農業資材店がこうした判断を支援してきましたが、その体制自体も将来的には維持が難しくなると見込まれていました。

「営業の現場から『農家さんを支援するアプリを作れないか』という提案が上がってきたのが最初です。私自身アプリを作った経験はありませんでしたが、一緒にやりましょうと並走しながらNTTとの共同開発に至りました」
トップマネジメント層がAI活用に対して積極的だったことも、推進力を後押ししました。
当時の社長が新しい技術への意思決定が早く、リードとバックアップの両面で現場を支えていました。この経営層の姿勢が、後の全社的なAI浸透の土壌を形成していくことになります。
定常業務の8割を削減。経営企画を少数精鋭で回す組織の裏側
レイミーの開発を通じてAIの可能性を実感した同社は、ChatGPTの登場を機に、2023年頃から生成AIの全社活用へと舵を切りました。
同社のシステムグループがすぐにガイドラインを策定。その内容自体もAIを活用して作成し、迅速に全社承認を得て環境を整備しました。
現在はMicrosoft Copilot、NotebookLM、エクサベース(exaBase)のエージェントAI(RAG)などを組み合わせ、業務の効率化を多面的に推進しています。
その成果は数字に表れています。
経営企画部では定常業務の8割以上がAIによって削減され、売上高約1,000億円規模の企業でありながら、戦略立案に関わる実務は部長を含め少人数で回しています。

「議事録作成、資料作成のサポート、データの可視化。こうした業務はAIで大幅に効率化できています。企業規模に対してかなり少ない人数ですが、AIを前提にすれば十分に回せます」
岡田氏が目指すのは、単なる効率化の先にある意思決定プロセスの変革です。
従来は担当者が資料を作り込んでから上司に相談するのが一般的でしたが、まずAIで速報性のあるデータをまとめ、クオリティは問わない前提で議論を始める。
この「最初の一歩」を省くことで、組織全体の意思決定スピードが高まると考えています。
「止める人がいない」。浸透を加速させたたった一つの条件
日本農薬の生成AI浸透率は、本社部門でほぼ100%──全員が使える環境が整備されています。
しかし、同社が特別な浸透施策を打ったわけではありません。
推進リーダーの配置も、大規模な研修も行っていません。誰かが使い、「すごい」と声を上げ、それが周囲に伝播する。自然発生的な広がりが、同社のAI浸透を支えています。

「積極的なアクションは取っていません。誰かが使えばすごいと思う。その言葉が伝わるから、みんな使っていく。広がるスピードが最近は特に早いですね」
では、なぜこれほどスムーズに浸透したのか。岡田氏はその最大の要因を「止める人がいないこと」だと語ります。
「AIに頼るな」「AIで作った資料はダメだ」──こうした声が組織内に存在しないことが、自発的な活用を促しているのかもしれません。
経営トップ自身がAIを積極的に活用し、その成果を実感していることが、使うことへの心理的なハードルを自然と下げているのではないでしょうか。
言語の壁を越える。グローバル16社をつなぐAI活用
日本農薬は世界16社のグループ会社を擁し、グローバルな事業展開においてもAIを積極的に活用しています。
農業の現場には暗黙知が多く、地域や国によって習慣も大きく異なるといいます。同社でグローバル展開を担当する青島氏は、その難しさをこう語ります。

「農業の現場は暗黙知が多く、データとして残っていないことばかりです。日本の中でも地域によって大きく異なりますし、グローバルになればなおさらで、国や地域によってやっていることがまったく違います」
生成AIの活用により、こうした知見をローカル言語の資料やダッシュボードとして即座に展開できるようになりました。言語の壁が下がったことで、これまで接点を持てなかった現地スタッフとの直接のやりとりも生まれ始めています。

「日本にいながら現地のことを知る、伝えることがすごく容易にできるようになりました。それをきっかけに現地の方々と直接コミュニケーションを取って、戦略を一緒に作っていけるようになってきています」
国や地域に縛られていた知見が、AIによってフラットにつながる時代が来ています。その結果、1人がカバーできる仕事の範囲も自然と広がっていくのではないでしょうか。
農薬は手段、目的は農家の未来。AI時代に描く企業像
「日本農薬」という社名から、農薬を売る会社と捉える人は少なくありません。しかし岡田氏の答えは明快です。

「農薬は手段であって、目的ではありません。我々の目的は、農家さんが安定して美味しい作物を作り続けてくれる環境を整えること。最も効果的なソリューションがたまたま農薬だっただけなんです」
この原点に立ち返った時、AIの役割はさらに広がります。
レイミーを通じて蓄積された現場のリアルタイムデータを、生成AIの柔軟性で統合・分析し、新たな価値につなげていく。世界中の農業現場の知見を即時に共有し、防除技術の発展に寄与する──そうした未来を、同社は見据えています。
組織のあり方も変わると岡田氏は予測します。
AIによって部下への指示が不要になれば、管理だけを行うマネージャーの必要性は薄れ、プレイングマネージャーが増えていきます。シニア社員ほど豊富な経験をAIのアウトプットに反映でき、新入社員はAIを使ってベテランと同等のアウトプットを出せるようになります。

「自分たちがいらなくなるかもしれない。でも、それでいいんです。そうなったら、また違う世界の課題を解決する仕事をすればいい」
日本農薬から学ぶ3つのポイント
1.「止めない文化」が最強の浸透戦略
推進リーダーの配置や大規模研修よりも、使うことを誰も否定しない環境が自然な伝播を生みます。経営トップ自らが活用し、「止める人がいない」状態を作ることが、最も効果的な浸透施策となっています。
2. グローバル展開の加速装置としてのAI
多言語資料やダッシュボードの即時生成が、売上高約1,000億円規模の企業のアジリティをグローバルで通用する武器に変えています。言語の壁を越えた先に、個人の成長機会とエンゲージメント向上が生まれています。
3.「農薬は手段」という原点回帰
AI時代だからこそ、自社の存在意義を「何を売るか」ではなく「何を解決するか」で再定義する。7年にわたるレイミーの蓄積と生成AIの柔軟性を掛け合わせることで、農業の持続可能性という社会課題への貢献を加速させています。
日本農薬の事例が示すのは、AI活用の本質は技術導入ではなく、「何のために存在するのか」という問いに立ち返ることです。
農薬という成熟産業の中で、社員1人ひとりの可能性を広げ、国境を越えた課題解決に挑む同社の姿は、規模や業種を問わず、すべての企業に問いかけています。
自社の「手段」と「目的」を、改めて見つめ直す時がきています。
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