生成AIは、もはや「試すかどうか」を議論する段階を過ぎつつあります。調べ物、要件整理、コードの叩き台、レビュー観点の洗い出し──開発の現場では、気づけばあらゆる工程に入り込み、手を動かすスピードや考える余白を静かに変え始めています。
一方で、「どこまで任せていいのか」「品質は誰が担保するのか」「現場は実際どう回しているのか」といった問いに、明確な答えを持てていないチームも少なくありません。
生成AIをエンジニアリング現場でどのように位置づけ、どこまで任せ、どこを人が担うのか──その考え方や実際の運用について、弁護士ドットコム株式会社 CTOの田中 慎司氏にお話を伺いました。

弁護士ドットコム株式会社
執行役員 CTO(Chief Technology Officer/最高技術責任者)開発本部長
博士(情報学)。京都大学大学院情報学研究科博士後期課程修了。日本電信電話株式会社に新卒入社、研究者として研究開発に従事。2006年株式会社はてなに入社。2010年よりCTOとして技術全般を統括、並行してサーバーモニタリングSaaS「Mackerel」の事業責任者等も兼務。2016年9月より執行役員として株式会社メルカリに入社。英国法人Mercari Europeにて開発チーム立ち上げ後、日本に戻りVP of Backendに着任。2022年より米国法人においてSr.Director of Backendに就任。2024年11月に当社に入社し、執行役員CTOに就任。
※株式会社SHIFT AIでは法人企業様向けに生成AIの利活用を推進する支援事業を行っていますが、本稿で紹介する企業様は弊社の支援先企業様ではなく、「AI経営総合研究所」独自で取材を実施した企業様です。
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「ROIは後回しでいい」──生成AIは「標準装備」という考え方
生成AI導入を検討する際、多くの企業が最初に立ち止まるのが「費用対効果をどう説明するか」という問いです。しかし、弁護士ドットコムでは、この問いを導入判断の起点にはしていません。
田中氏は、ROIの定量化について「数字は作れますが、その数字が『次にどう判断すべきか』を教えてくれるとは限りません。プロダクトやフェーズごとの揺れ幅が極端に大きい開発現場では、部分最適の数値が全体最適を見誤らせる危険すらあると考えています」と語ります。
開発の生産性は、プロダクトのフェーズや機能の性質、個々のエンジニアの裁量や熟練度によって大きく揺れ動きます。ある機能では劇的な改善が起きても、別の機能では変化が見えにくい事例も珍しくありません。「ばらつき」の大きい現場を、単一の改善率や平均値で語ること自体が、実態から乖離してしまうのです。
そこで同社が採ったスタンスは、生成AIを「成果を証明してから導入するツール」ではなく、「仕事を高めるための前提条件」として捉えることでした。エンジニアにとっての高性能な開発環境と同じく、AIはもはや「導入の有無」を議論する対象ではなくなりつつあります。
「生成AIが当たり前のように活用されている現代では、導入を遅らせるほうが長期的には大きなリスクになります」
田中氏の言葉が示すのは、ROIを無視するという姿勢ではありません。まず使いこなし、そこで生まれた変化を後から捉える。生成AIを「標準装備」として受け入れる姿勢こそが、次の開発スピードを左右します。
要件定義から運用まで。生成AIは全工程に取り入れる
生成AI活用というと、コード生成やレビューなど「実装フェーズ」に注目が集まりがちです。しかし、弁護士ドットコムでは、生成AIはすでに特定の工程に閉じた存在ではなく、開発プロセス全体に自然に入り込む存在になっています。
要件定義では、AIを壁打ち相手にしながら要件を分解し、曖昧な仕様を言語化していく。設計フェーズでは、設計書の雛形作成や、その内容を踏まえた実装コードの叩き台づくりに活用する。実装後はAIにレビュー観点を出させ、QAではテストケースの洗い出しを補助させる。さらに運用フェーズでは、障害時の状況整理や情報の要約にも使われています。
ただし、ここで強調すべきなのは、どの工程においても「最終確認は必ず人が行う」という点です。生成AIはあくまで、考える前の整理や視点出し、作業のたたき台を担う存在であり、成果物の正しさや妥当性を判断する役割を担ってはいません。コードレビューやQAに生成AIを使っても、最終的な判断は人が責任を持って行う。この線引きが、全工程への導入を可能にしています。
また、こうした使い方が上層部で厳密に定義されているわけではありません。事業やチームごとにフェーズや課題が異なるため、「この工程ではこう使う」と決め切らず、現場が状況に応じて最適化。その結果、生成AIは作業を代替する存在ではなく、人の判断を中心に据えたまま、思考と作業を横断的に支える補助輪として定着しつつあります。
生成AIの役割はプロダクト開発そのものを前に進める力を最大化すること
生成AI活用の効果として、田中氏は「成功事例では生産性が感覚値で10倍になったという声もあった」と語ります。実際、弁護士ドットコム社内のアンケートでは、「コードの約40%を生成AIに書いてもらっている」という回答もありました。同社の開発環境が大きく変わり始めているのは、紛れもない事実です。
ただし、同社がこの変化を「人件費削減」や「コスト圧縮」として捉えているわけではありません。あくまで田中氏は、生成AIによって生まれた変化をアウトプット量の増加と開発スピードの加速として見ています。同じ人数でより多くの機能を作れるようになり、試行回数を増やせるようになったという変化です。
象徴的なのが、現在1人で開発を進めているプロダクトの事例でした。担当者本人が「今は10人分くらいの仕事ができている感覚がある」と語るほど、業務範囲が広がっています。重要なのは、その10倍が単なる作業量の増加ではなく、これまで時間的制約で諦めていた改善や挑戦に手が届くようになった点でした。
生成AIは、人を減らすための道具ではありません。人が担うべき判断や設計はそのままに、作業の摩擦を減らし、前に進む速度を上げる存在です。だからこそ、同社が狙っているのはコスト削減ではなく、プロダクト開発そのものを前に進める力を最大化すること。
「速くなった」という結果よりも、「できることが増えた」という変化こそが、生成AI活用の本質だといえます。
使い方は現場が決める──ボトムアップが機能する設計
こうした活発な生成AI活用の現場を実現するうえで、弁護士ドットコムが選んだのは、経営層で使い方を細かく定義するやり方ではありませんでした。「ツールを使うこと自体は許可しています。どこに使うか、どう組み込むかは現場次第です」と田中氏は語ります。
同社には複数の事業と開発チームが存在し、新規開発から長期運用までフェーズも多様です。こうした状況で画一的なルールを敷けば、現場の実態と乖離してしまう。 「事業ごとに状況が違うので、統一的な使い方を決めるのは現実的ではない」という判断が、生成AI活用を“設計しすぎない”方針につながっています。
一方で、現場にすべてを丸投げしているわけではありません。利用環境やツール選定、セキュリティチェックといった基盤部分は組織側が担い、その上で活用の工夫は現場に委ねる。決める領域と任せる領域を明確に分けることで、現場は「試していい範囲」を理解したうえで動けます。
結果として生成AIは指示された施策ではなく、各チームの課題に応じて自然に組み込まれていきました。必要なところから使い、うまくいった事例が共有され、別のチームに波及していく。こうした自律的な循環が生まれた背景には、「現場が最適解を見つける前提」で組織が設計されていたことがあります。
ボトムアップが機能している本質は、自由度の高さそのものではありません。
現場を最も課題に近い意思決定主体として位置づけ、その判断を尊重する組織設計。
生成AIを「管理すべき新技術」ではなく、「現場が使いこなす前提のインフラ」として扱ったことが、定着を促進する設計として機能していました。
勉強会×OKRで「触る理由」を作る。浸透の空気をつくる推進術
生成AI活用を組織に根づかせるために弁護士ドットコムが重視したのは、「正しい使い方を教えること」よりも、「まず触る機会をつくること」でした。田中氏は当時の方針について、次のように語ります。
「AIのプロジェクトを立ち上げるというより、日常業務の中で自然に使ってもらう形を意識しました」
その中核となったのが、勉強会とOKRの組み合わせです。月1回の全社横断勉強会では、完成度の高い成功事例だけでなく、試行錯誤の途中経過や失敗談も共有されました。田中氏は、場の設計意図をこう説明します。
「すごい事例を見せるより、今どう使っているかを共有するほうが、次の一歩につながると思ったんです」
さらに重要だったのが、OKRへの組み込みです。田中氏はこう続けます。
「完全に食わず嫌いにならないように、各自のOKRにAIツールを何か試すという項目を入れてもらいました」
成果を厳密に求めるのではなく、「触る理由」を制度として用意する。忙しさを理由に試せない状況を防ぐための工夫でした。
ただし、使い方や成果の出し方まで管理することはありません。目標設定は各メンバーとマネージャーの1on1に委ねられ、強制感は抑えられています。その結果、当初は慎重だったメンバーも、周囲の活用や世の中の流れに触れる中で、自然と使い始めていきました。田中氏は、こう振り返ります。
「社内でも世の中でも、使うのが当たり前という空気ができたことは大きかったです」
制度で背中を押し、場で熱量を循環させる。この積み重ねが、生成AIを一過性の施策ではなく、文化として定着させる力になっていました。
業務×プロダクトの両輪で、次の常識をつくる
業務領域では、要件定義から実装、レビュー、運用まで、生成AIを「現場の生産性を押し上げるツール」として活用してきました。一方で、その知見を社内に閉じたままにせず、顧客に提供する価値へと転換していくことも、同社では同時に進めています。
その象徴が、生成AIを前提に設計されたプロダクトの登場です。田中氏は次のように語ります。
「自社のミッション実現のためには、業務改善だけで終わらせず、プロダクト側にもAIを入れていく必要があると感じています」
社内で試行錯誤を重ねたからこそ、どこにAIを使うべきで、どこは人が担うべきかが見えてくる。その知見が、プロダクト設計に現実味を与えています。業務でAIを使うことは、単なる効率化ではなく、「AIと人の役割分担」を磨く訓練でもあるのです。田中氏は、同社の現在地についても冷静に捉えていました。
「生成AIはまだ進化の途中です。だからこそ、開発プロセスにもプロダクトにも、変化を前提に組み込んでいく必要があります」
業務で試し、学び、それをプロダクトに反映する。
プロダクトで得た知見を、再び業務に持ち帰る。
この循環こそが、弁護士ドットコムが目指す「次の常識」を形づくっています。生成AIは単なる効率化ツールではありません。業務とプロダクトの両輪で使い続けることで初めて、企業の競争力そのものになる。同社の取り組みは、そのことを静かに示しています。
弁護士ドットコムから学ぶ5つのポイント
生成AI活用の事例は増えていますが、「自社ではどう取り入れるべきか」まで具体的に示してくれるものは多くありません。ツールや成果は語られても、どんな判断で導入し、どう組織に根づかせたのかは見えにくいのが実情です。
弁護士ドットコムの取り組みが示しているのは、生成AIを特別な施策にせず、日常業務の延長線上に置いた点でした。
ROIの捉え方や現場への任せ方など、その判断には他社にも応用できる示唆があります。ここからは、同社の生成AI活用から学べる5つのポイントを整理します。
1. ROIは導入判断の起点にしない
生成AIを「費用対効果が証明できたら使うもの」ではなく、「仕事を成立させるための前提条件=標準装備」と捉えている点が最大の特徴です。
開発現場はばらつきが大きく、単一の数値では実態を捉えきれません。だからこそ、まず使いこなすことを優先し、評価は後から考えるという順序が取られています。
2. 特定工程に閉じず、開発プロセス全体に組み込む
要件定義、設計、実装、レビュー、QA、運用まで、生成AIは全工程に入り始めています。
ただし「最終確認は人が行う」という線引きを明確にすることで、品質と安全性を担保。
自動化ではなく、人の判断を中心に据えた補助輪として使われている点が重要です。
3. 狙うのはコスト削減ではなく、前に進む力の最大化
生産性が10倍になるケースも生まれていますが、その成果は人員削減ではなく、アウトプット量の増加・開発スピードの加速・挑戦の幅の拡張として捉えられています。
生成AIは「人を減らす道具」ではなく、「できることを増やす道具」です。
4. 使い方は現場に委ね、組織は土台を整える
生成AIの具体的な使い方は現場が決め、組織はツール提供・セキュリティ・ルール整備を担う。 「決める領域」と「任せる領域」を明確に分けたことで、ボトムアップの活用が自然に広がりました。
管理しすぎない設計が、定着を生んでいます。
5. 勉強会とOKRで「触る理由」をつくる
同社では成功事例を教え込むのではなく、試行錯誤を共有する場をつくりました。さらにOKRに「AIを試す」項目を入れることで、忙しさによる「食わず嫌い」を防止。
制度と空気づくりの両面から、生成AIを文化として浸透させています。
同社は、生成AIをROIで是非を判断する対象ではなく、開発を前に進めるための標準装備として位置づけています。要件定義から運用まで全工程に取り入れつつ、最終判断は人が担うという線引きを徹底し、コスト削減ではなく試行回数と挑戦の幅を広げる方向で活用してきました。
使い方は現場に委ね、組織は環境整備と「まず触る」空気づくりに集中したことが、定着を支える鍵になりました。
しかし、自社でこれを実践しようとすると、
「うちの組織に合ったAIの活用法が分からない」
「現場にどうやってAIを浸透させればいいのか?」
「AI導入後の定着をどうサポートすればいいのだろう?」
「効果的な研修プログラムをどう設計すればいい?」
といった壁に直面するケースも少なくありません。実際、多くの企業様から同様のご相談をいただいています。
私たちSHIFT AIは、こうした「導入したが仕組みにできない」という課題解決を得意としています。
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