大手金融機関でIT・デジタル・新規事業に携わってきた田中紀子氏は、2023年7月、ポンプ、冷凍機、コンプレッサ・タービン、ごみ焼却施設、半導体製造装置など、社会・産業・くらしを支える製品・サービスを提供し続けるグローバル企業の株式会社荏原製作所へ転身しました。
田中氏が入社後にすぐ着手したのが、全社的な生成AIプラットフォームの構築です。その目的は、生成AIというインターネット登場以来の革命を、ルールや安全性を担保した共通基盤として全社員に開放し、企業の競争力強化に繋げること。
そして、入社後わずか1年足らずで、田中氏はメンバーと共にマルチクラウド、アクセスコントロール、多言語対応といった高度な要件を内製で実現した「EBARA AI Chat」を全社に展開しました。2025年時点で「EBARA AI Chat」の総利用回数は約75万回に達し、社員が情報探索にかけていた時間など、大幅な省力化に貢献しています。
今回は、このプロジェクトを推進したデータストラテジーユニットリーダーの田中氏に、金融から製造業へ転身した理由、そして荏原製作所の創業の精神「熱と誠」で挑むAI時代の推進哲学について深く伺いました。

株式会社荏原製作所
データストラテジーチーム データストラテジーユニットリーダー
京都大学理学研究科数学科修了後、株式会社三和銀行(現、株式会社三菱UFJ銀行)に入行。クオンツ開発業務、事業法人向けシステム関連アドバイザリー業務、大規模全社システムプロジェクトやAI関連プロジェクト等の数多くのプロジェクト、システムIT企画・DX企画・新規事業企画立案など、一貫してシステム・IT・DX関連業務に従事。2023年7月株式会社荏原製作所に入社後、生成AIプロジェクトを立上げ、CIO直下のデータストラテジーチームのユニットリーダーとして、生成AI全社プロジェクトを推進。2025年4月より現職。
※株式会社SHIFT AIでは法人企業様向けに生成AIの利活用を推進する支援事業を行っていますが、本稿で紹介する企業様は弊社の支援先企業様ではなく、「AI経営総合研究所」独自で取材を実施した企業様です。
「実務ノウハウ3選」を公開
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金融ITの第一人者が、なぜ製造業「荏原製作所」に飛び込んだのか
京都大学理学研究科数学科を修了後、旧三和銀行(現三菱UFJ銀行)に入行した田中氏のキャリアは、数学を用いて金融モデルを開発するクオンツ開発者から始まります。
入行から数年、確率論や数理学を用いてデリバティブモデルの開発を行う中で、実際にプログラムも書き、技術的な基礎を固めていきました。
その後もシステムIT企画、DX企画、AI関連プロジェクトの立ち上げなど、25年間にわたり一貫してデジタル・システム畑を歩み続けます。
そんな田中氏が荏原製作所への入社を決意した背景には、自身が持つデジタル技術・データ活用の経験を活かせることに加え、「社長直下でデータドリブン経営を行う」という組織ミッション、そして「熱と誠」という創業精神への強い共感がありました。
また、金融とは異なる「モノ」という実体がある製造業の魅力、そして同社の企業文化に強く惹かれたと語ります。入社初日に同社の藤沢工場を訪れた際の衝撃と感動を、田中氏は次のように述べています。

「広大な土地に並ぶ巨大な工場施設、そこで開発・生産などに携わる人たちが技術力と熱意を持って製品を作る現場を見て、この製品で社会に貢献しているんだという実感が強く湧きました。目立たない場所にある一見地味な機器も、社会の重要なインフラを担っている。そのような点に非常に感銘を受けました」
巨大組織での「仲間づくり」と「合意形成」が生んだAIプロジェクト
田中氏が入社後すぐに取り組んだのが、全社的な生成AIプラットフォーム「EBARA AI Chat」の立ち上げです。その推進プロセスは、田中氏のこれまでのキャリアで培ったPMOや企画・体制構築のノウハウが凝縮されたものでした。
当初、同社内にはセキュアにAIを利用できる環境がなく、田中氏は「社内の膨大なデータを生成AIで安全に活用できる環境整備は、企業の競争力強化に不可欠だ」と強く感じていました。
一方、入社直後で人脈もない中、この思いを実現するには、賛同してもらえる仲間探しが重要でした。そのため、社内のGoogle Chatの「スペース」を活用し、積極的に社内の人脈構築に励みました。

「入社してすぐ、会社のGoogle Chatのスペースに、入れるものはすべて入りました。最初の1週間で、可能な限りすべて参加したんです。そこでの発言を見ていくと、社内の動きがわかるだけでなく、たまに『ChatGPTのこんな機能がおもしろい』といった発信をしている人がいるんですよね。そういう発言に返信をして、積極的にコミュニケーションを取っていきました。その後、『少し個別にミーティングで話しませんか?』と持ちかけ、仲間を増やしていきました」

「また、そういった中で、社内では研究開発分野を中心に生成AIを活用したいというビジネスニーズがあることもわかりました。同じチームだった若手メンバーが技術力に優れたエンジニアだったので、『ニーズに応えるプロトタイプをまずは作ってみないか』と彼を誘い、1週間程度で簡易生成AIチャットボットを作成したところ、研究開発分野のユーザーから非常に喜ばれました」
その後並行して検討していたベンダーの成果を上回る結果を出したことでチームの信頼性は高まり、内製開発へと舵を切る大きなきっかけとなったと言います。
そして、これまで巨大な組織でキャリアを歩んできた経験が活きたのが、全社体制の構築です。スモールに始めた内製開発での成果をベースに、Googleスペースなどを構築した人脈・アーリーアダプター的な人材を巻き込み正式なプロジェクト体制の承認を取り付け、法務やリスク管理部門にも働きかけた上で、ステアリングコミッティで役員や関係者との合意形成を徹底しました。
この周到な準備とチームメンバーの努力により、プロジェクトは数ヶ月で国内展開へと結びつきました。
汎用性と安全性を追求した「EBARA AI Chat」のマルチクラウド戦略
全社プラットフォーム「EBARA AI Chat」の開発において、田中氏がデータストラテジーユニットリーダーとして費用対効果を最大化するために定めた設計思想は「汎用性と安全性」です。
生成AIという技術のビジネス活用においては事業部ごとの個別開発ではなく、全社共通基盤として整備することが、グループ全体の費用対効果を最大化すると田中氏は確信していました。また、多くのユーザーニーズを個別にカスタマイズ対応するのではなく、汎用化した仕組みで提供することが重要だと考えました。
この「汎用化」を実現するために、田中氏はアクセスコントロールの確実な実装を最優先しました。全社の多様なニーズを「社内データを使ってAIに回答させる」という概念に抽象化し、データソースごとに責任者が閲覧範囲を決め、認証・認可が効く仕組みを開発チームで構築。これにより、個別カスタマイズなしに現時点で80以上のデータソースへの対応を可能にしました。
さらに、技術面で大きな挑戦となったのが、マルチクラウド・マルチモデルの実現です。ChatGPT、Gemini、Claudeという各社のモデル、それぞれが常にアップデートされ、得意分野や料金の違いがある中で、複数のモデルを選択可能にすることは、ベンダーロックインを回避しユーザーに最適なソリューションを提供できると考えました。
その実現には、複雑なネットワーク構成やセキュリティを確保する必要がありましたが、ネットワークチームの強力も得て、安全な環境を整えました。
この内製化と戦略的な共通基盤の構築により、2025年時点で「EBARA AI Chat」の総利用回数は約75万回におよび、情報探索時間などの大幅な省力化に貢献するなど、定量的な成果を上げ、社内文化の変革を牽引しています。
「AIはインターネット登場以来の革命だ」全社で活用を推進
田中氏がデータストラテジーチームのリーダーとして目指したのは、自らが受けた「AIはインターネット登場以来の革命だ」という生成AIの衝撃と可能性を、いかに全社員の力に変え、活用を「民主化」するかということでした。

「はじめてChatGPTに触れたとき、非常に強い衝撃を覚えました。これはゲームチェンジとなる強力なデジタル技術だと震えるほどの感動で、思わず、家族のグループLINEで大学生の娘や息子にチャットしてしまいました。理由は2つ。1つ目は、これまでの技術は一部のコードがわかるエンジニアのものだったが、ChatGPTは誰でも自然言語で指示を出すだけで何かしら回答してくれること、つまり子どもから老人まで、新入社員から社長まで誰でも使える民主化された技術だったということ。2つ目は、今まではデータは構造化しなくては利用できなかったが、世の中の90%以上を占める非構造データが扱えるようになったこと」
AIを安全に利用し、全社的に浸透させるため、田中氏のチームはさまざまな施策を展開しました。
まず、ガイドラインや明確なルールを整備し、社員が安心して使えるガバナンス体制を構築。技術進化のスピードに合わせて、ルールは常にアップデートしています。
活用を促すための施策としては、利活用ガイドや取り組み事例集、プロンプト共有が可能な内製コミュニティサイトの作成など多岐にわたります。これらの活動が従業員のAIリテラシー向上にも寄与し、自主勉強会には過去最高の参加者が集まりました。
さらにはAI活用コンペの実施によるインセンティブ付与の実施など、社員の挑戦意欲と熱意を引き出す工夫も行いました。
人間の強みは「揺るがない情熱と胆力」
田中氏は、AIを「人間の能力を拡張してくれる強力な武器」と捉え、自身のキャリアを振り返りながら、「人にしかできないこと」の重要性を強調します。AIがデータや確率論的に最適解を出したとしても、最終的に進むべき北極星を示しそれに向かって進めることにコミットし、覚悟を決めて行動する力は人間にしかありません。

「やると決めたことを胆力を持って最後までやり切るのは人です。揺るがない情熱と意志は人間にしかありません。また、誰を巻き込むかとか、どういう順番で誰に何を話をして、どうやって進めていくか、というソフトスキルや暗黙知的なところも人間の強みなのではないかと思います」
AIは「知りたい」という人間の思いに答えてくれる強力な武器です。これからの時代、人は好奇心旺盛にAIを活用することで、自身の専門分野を深掘りするだけでなく、知らない分野にも興味や関心を広げ、自身をエンパワーしていけると田中氏は考えます。
荏原製作所は今後、さらにAIが自律的に動作するAIエージェントエコシステムの構築を推進し、製造DXやメタバースなど他の要素技術とAIを柔軟に組み合わせることで、グローバルでの競争力を強化していきます。

「日本経済の長期的な低迷を表す“失われた30年”という言葉をよく耳にしますが、その30年を職業人として過ごしたことを思うと、私自身もその責任の一端を感じています。だからこそ、産業革命を上回るような技術であるAIを最大限に活用し、日本の産業が再び世界をリードできるよう、貢献したいと思っています。そのために、企業、そして自分自身をエンパワーさせるAIを味方につけ、企業価値の向上、そして世の中の発展へと導いていくか、考え、行動し続けたいと思っています」
この言葉に、DX推進者としての熱い情熱と、飽くなき探究心、そして挑戦の決意が込められています。
荏原製作所から学ぶ5つのポイント
荏原製作所における生成AIの活用は、高度な技術や専門的なノウハウによって実現されています。
しかし、同社の取り組みの本質は、技術力そのものに留まらず、「全社員が安全に、自ら工夫しながら活用できる」ための実効性の高い仕組みづくりにあります。
多くの企業が直面するAI導入の壁を超えるために、同社の実践から真似するべき5つのポイントを整理します。
1. 特定のユースケースから「汎用的な共通の土台」づくりを意識する
同社は最初の研究開発部門のユースケースでのPOCをベースに、それを「全社で安全に汎用的かつ安全に使える仕組み・共通基盤」に拡張させました。その実現の為に、セキュリティーが担保された上でアクセス権限を管理する機能の構築を行いました。結果として、異なる多くのユースケースの膨大なデータを同時に安全に扱えるようになり、大きなコスト削減にも繋がりました。このように、特定の課題を汎用化させ、共通な仕組化させるという意識が重要なポイントとなります。
2. 推進の鍵は「仲間集め」と「調整力」
AIプロジェクトの体制は、上からの指示だけでメンバーを決めるだけではうまくいきません。田中氏は、社内でアーリーアダプターを見つけ出し、個別に声をかけて熱意ある仲間を集めました。そして、技術的な開発と、経営層や部門長との合意形成を同時に進めるという方法を取りました。AIの技術力だけでなく、組織全体を動かす「調整力」が推進の鍵となります。
3. 「内製開発」で技術的優位性とスピードを確保する
若手エンジニアと共にマルチクラウド構成といった高度なニーズを内製でスピーディーに実現したことは、社員からの信頼獲得に直結しました。内製化はコスト削減だけでなく、最新技術にすぐ対応できる技術的な強みを生み出し、外部に縛られない自由な開発を可能にします。また、「自分たちの手で新しいものを作る」という前向きな気持ちを社員の中に育て、会社の文化を変える核となりました。
4. 「ルールとインセンティブ」で活用を推し進める
同社はAIを使う上でのルールやガイドラインを最初に明確にしました。これは、現場が「使っていい範囲」を明確に知ることで、躊躇なく活用を進めるための前提条件となりました。さらに、コミュニティサイトの立ち上げや活用コンペによるインセンティブ設計など、モチベーションの向上に寄与する施策を組み合わせることで、「良い事例が自然に広がる文化」を醸成しています。
5. AIを「自己拡張の強力な武器」として位置づける
AIは企業の生産性を高めるツールであると同時に、個人の能力を拡張してくれるパートナーです。同社が海外展開を見据えて多言語翻訳機能を搭載したり、社員がモデルの得意不得意を理解して使い分けられる環境を提供したりしているのは、AIを「個人の成長の味方」として位置づけているからです。社員が自らAIを試すことで、好奇心と探究心を刺激し、組織と個人の双方に新たな価値をもたらします。
もちろん、ここで紹介した取り組みは、荏原製作所の企業文化や田中氏のチームの努力があってこそ実現できたものでもあります。
重要なのは、「仕組みそのものを真似ること」ではなく、自社の目的や文化に合った形でAIの活用を設計することです。AIを導入すること自体がゴールではなく、社員一人ひとりが自然に使いこなせる環境を整えることが本当の成果につながります。
しかし、実際に自社でこれを実践しようとすると、
「うちの組織に合ったAIの活用方法は?」
「社内に広げるには、どんな人材が必要?」
「成果をどうやって可視化すればいい?」
といった壁に直面する企業も少なくありません。多くの組織が同じ悩みを抱えています。
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